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時にかなったことば:悲しむ人に何と言うか

リチャード・ブラッシュ · 2021年1月17日 · 約4分で読めます

先週、世界は痛ましい統計に直面しました。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による死者が、200万人を超えたのです。死という避けられない現実が、新たな、しかもしばしば身にこたえる形で、私たちすべてに突きつけられています。多くの人が愛する人を失って悲しんでいます。さらに多くの人が、自分の命を恐れています。

この最大の敵を前にして、私たちは何と言えるでしょうか。

名古屋で受講している初期仏教の講座で、現存する最古の資料によれば、釈迦が悲しみにどう向き合ったのかを知り、とても興味深く思いました。

悲しむ人への釈迦の接し方については、いくつもの物語が伝えられています。とくに『テーリーガーター』、すなわち『長老尼の偈』という仏典に見られます。この書物は、インドで知られている最古の女性の文学集で、収められた詩の一部は紀元前6世紀にさかのぼります。

ある場面では、その詳細が後の注釈書で補われていますが、釈迦の著名な女性の弟子が、悟りに至った苦しみを語ります。パターチャーラーという名のこの弟子は、親が決めた結婚を避けるために、恋人と駆け落ちしました。のちに二人の子どもを産みましたが、夫が亡くなると、実家へ帰ろうと決意します。苦難に満ちた旅の途中、彼女は二人の子どもをどちらも失います(一人は荒れ狂う川の水に、もう一人は猛禽に奪われて)。そしてようやく帰り着いた実家で、両親もすでに亡くなっていたことを知るのです。

パターチャーラーは、悲嘆のうちに釈迦のもとへ来ました。釈迦の「慰め」は、「嘆く女たちの涙は、世界の大海を満たすほどである」と彼女に思い出させることでした。つまり、彼女の悲しみは、珍しいものではないということです。悲しみは普遍的な経験であり、釈迦の弟子は、それを避けられないものとして受け入れ、それに動かされないことを学ばなければなりません。

別の場面では、ある女性が赤ん坊を失いました。その子の名はジーヴァティー(皮肉にも「いのち」という意味です)。釈迦は何日ものあいだ、この女性がジーヴァティーの墓に通い、亡くなった子のために嘆くのを見ていました。時が来ると、釈迦は彼女に問いかけます。「ジーヴァティーという名の少女は八万四千人いて、その遺骨がこの墓地にある。あなたは、そのうちのどの子を悼んでいるのか。」この問いの要点も、やはり死の普遍性を強調することにあり、嘆く母親が、自分の失った子には何も「特別」なところはないと受け入れる必要があることを示すものでした。この悟りを得て初めて、彼女は自分を縛る悲しみを乗り越えることができるのです。

さらに別の話では、夫と二人の子どもを失った貧しい女性が釈迦のもとへ来て、亡くなった家族を生き返らせる「薬」がないかと願いました。

釈迦は言います。「ある。薬を作ってあげよう。ただし、材料を集めてきなさい。それは、死の悲しみがこれまで一度もなかった家のものでなければならない。」

貧しい女性は村中の家を回りましたが、当然のことながら、死の悲しみを知らない家はありませんでした。彼女は新たな悟りを得て釈迦のもとへ戻ります。自分の境遇はすべての人間に共通のものだと知り、この認識のうちに、弟子としての悟りへの道を見出しました。

これらの例は、私たちに何を教えているでしょうか。第一に、現代のほとんどの人には、かなり厳しいものに映ります。日本の仏教が、初期仏教に見られるような悲しむ人への接し方を、ほとんどとってこなかったのは、そのためかもしれません。たとえば、日本の一部の民衆的な仏教宗派では、後世に仏教の教えへ付け加えられたものとして、「極楽浄土」という考え方が発達しました。この世で仏の名を唱えれば、死後に苦しみのない場所へ行けるというものです。日本人の多くは、悲しむ人を慰めるために、亡くなった人は死後に「天国」へ行ったと語ります。釈迦自身がそのようなことを教えたという証拠はありませんが、悲しむ人への釈迦自身の厳しい接し方は、多くの人にはあまりにも受け入れがたいように思われます。

そうは言っても、第二に、釈迦の一見厳しい態度を、別の観点から説明することも可能です。仏教の教師たちは、これらをしばしば「対機説法」と呼ばれるものの例として説明します。これは、聞き手の心理的、感情的な状態を考慮して、真理を分かち合うのにふさわしい時を待つことです。「対機説法」のゆえに、釈迦はたいてい、いきなり説教を始めませんでした。たとえ話を用いたり、悲しむ人に近づく前に時機を見計らって見守ったりしたのです。釈迦は、人々を、自分自身で真理を悟るように導こうとしました。それ自体は、称賛に値します。しかし、愛する人の死を悼む人々にとって、それは本当に十分でしょうか。

結局のところ、釈迦には、悲しむ人に差し出せるものが、死は普遍的であるという認識と、万物は過ぎ去るものだという悟りから弟子を揺るがせてはならない、という主張のほかにありませんでした。

クリスチャンには、分かち合うべき、より良い慰めがあります。イエス・キリストは、ご自分が生と死の主であると主張されました。そして、死者の中からの復活によって、それを証明されました。実際、愛する兄弟を失って悲しんでいたある女性に、イエスはこう言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」

これは、クリスチャンが、悲しむこの世界に分かち合える、確かで揺るぎない希望です。最後の敵である死は、イエスによって打ち破られました。クリスチャンも悲しみます。もちろんです。死は愛の関係を引き裂く残酷な簒奪者だからです。しかし、不信者の世界が悲しむようには悲しみません。私たちは悲しむ人の涙を共にし、その重荷を負うことを助けます。けれども、死が普遍的であることは、死の勝利を意味しません。ですから私たちは、悲しむ人に、そして万物の回復を待つあいだ悲しんでいる私たち自身にも、こう言うことができます。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。

死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

しかし、感謝すべきことに、神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいます。

(コリント人への手紙第一15章55〜57節)

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