聖書自身が自らについて教えていることから聖書論を築くなら、「分かりやすい」箇所(たとえば、テモテへの手紙第二3章16節やペテロの手紙第二1章21節)以外の、幅広い箇所も用いることができます。
新しい注解的連載の第1回では、ローマ人への手紙16章25〜27節を取り上げます。

25 私の福音とイエス・キリストの宣教によって、あなたがたを強めることのできる方、すなわち、永遠の昔から隠されていた奥義の啓示によって、 26 しかし今や現されて、預言者たちの書によって、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に導くためにすべての国民に知らされた奥義によって、 27 知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストを通して、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
ローマ人への手紙の末尾にある、神に栄光を帰するこの三節の頌栄が、出発点です。「聖書とは何か」という問いとの関連で、これらの節があまり知られていないのは、私には不思議です。注意深く調べると、きわめて重要な箇所だとわかるからです。その重要性は、聖書を、より広い啓示の領域の中に位置づけているところにあります。そしてその啓示自体が、永遠の神のご計画とご目的に根ざしているのです。これは、聖書の本質と機能を理解するための、究極の神学的な文脈です。
この文脈の中で聖書が占める位置を考える前に、まず、パウロが、奥義、啓示(顕現)、福音の宣教という概念を、救済史の中でどのように関係づけているかを見ておく必要があります。パウロは頌栄を、「私の福音とイエス・キリストの宣教」が、「今や現された奥義の啓示」と機能的に並行するように構成しています。ここでの「宣教」(ケーリュグマ)は、「宣べ伝えること」と訳すこともできますが、宣べ伝える行為そのものというより、宣べ伝える内容を指している可能性が高いでしょう。「福音」も「宣教」も、イエス・キリストのものです。キリストが、その源であり、内容です。そして、キリストについてのこのメッセージが広がっていくとき、「奥義の啓示」が起こります。パウロ自身はもちろん宣教者であり、福音を「私の福音」と呼んでいますが、新約聖書において「啓示」(アポカリュプシス)は、つねに神の行為です。厳密に言えば、使徒であれ、そうでない者であれ、人間の宣教者がイエスの奥義を啓示するのではありません。むしろ、パウロのメッセージが宣べ伝えられるとき、使徒たちの宣教を通して、神による啓示が成し遂げられるのです。ここでの「奥義」は、一種の謎ではなく、かつては隠されていたが今は明らかにされた福音の真理、つまり、イエスが約束されたメシアであり、世の救い主であるということです。奥義とは、覆われているものを指します。それが「隠されていた」というのは、語られず、沈黙のうちに保たれていた、という意味です。しかし今や、それは「現された」のです。ここでは、公の知識となったという意味です。パウロが啓示に用いているギリシア語は、文字どおりには、ベールや覆いを取り去ることを意味します。パウロと使徒の同労者たちが福音を知らせるとき、神がなさっているのは、この働きです。
神による啓示の行為と、人間による福音宣教の行為とのあいだに、「競合」がないことに注目してください。また、奥義が明らかにされることが、一部は神により、一部は使徒たちによって成し遂げられるかのような、ある種の「バランス」があるわけでもありません。むしろ、神の行為と人間の行為という二つは、同じコインの裏表であり、神の側と人間の側から、同じ「出来事」を見る二つの見方です。使徒たちの語りかけと、神による顕現は、イエスの福音が広がっていくなかで出会うのです。
では、啓示についてのこうした教理は、聖書とどう関係しているのでしょうか。ここでは、26節の「預言者たちの書」という重要な言及に注目します。新約聖書においてギリシア語の「グラフェー」(ローマ16章では複数形)は、つねに聖典を指すので、「書」よりも「聖書」と訳すのが望ましいでしょう。英訳聖書の一部(たとえばNASB)は、「預言的な聖書」ではなく、「預言者たちの聖書」などと訳しています。文法的にはどちらも可能で、前者の読み方はラテン語のウルガタ訳の翻訳の伝統に従っています。しかし、焦点が「預言者」である著者にあるにせよ、書物の「預言的」な性質にあるにせよ、パウロが具体的にどの聖書を念頭に置いているのか、という問いは残ります。
大半とは言わないまでも、多くの注解者は、ここでパウロが語っているのは旧約聖書だと考えています。この見方には、主に三つの理由があります。第一に、預言者たちの書は旧約聖書の大部分を占めており、新約の時代には「預言者たち」という言い方が旧約聖書全体を指して使われていたようです(使徒26章27節)。1 このことから、新約聖書の著者による「預言的な」聖書への言及は、まず旧約聖書を指す可能性が高いように思われます。第二に、パウロの頌栄は、手紙の導入部と響き合っているように見えます。そこでパウロは、神の福音は、「聖書の中で、預言者たちを通して、前もって約束されていた」と述べています(1章2節)。これは、「前もって」預言した旧約の預言者たちへの明確な言及です。頌栄が、手紙の冒頭と対応する「ブックエンド」として機能しているなら、パウロが同じ主題に戻るのは、たしかに筋が通っています。最後に、権威あるギリシア語辞典は、「初期キリスト教の時代において『聖書』は、つねに旧約聖書を意味し、かなりの時間が経ってから、この語が新約聖書の文書を指すようになった」と断言しています。2 もしこの主張が正しければ、パウロが預言者のグラフェーについて書くとき、旧約聖書を指していると結論すべきことになります。
しかし、パウロが言う「預言者たちの書」が旧約聖書に限られる、という結論は、実はそれほど自明ではありません。第一に、新約聖書において「グラフェー」がつねに旧約聖書を指す、という主張を、証拠は支持していません。新約聖書の中の少なくとも二か所では、私たちの新約聖書の一部を成す文書が、「聖書」という専門用語で呼ばれています(ペテロ第二3章16節、テモテ第一5章18節)。第二に、もし同じ福音が、以前から存在した旧約聖書そのものを通して今や明らかにされ、啓示されたというのなら、その福音の奥義が、過ぎ去った時代(おそらく旧約の時代全体を含む)には「沈黙のうちに保たれていた」〔私訳。ESVは「秘密にされていた」〕とパウロが述べているのは、どういうことなのか、すぐにはわかりません。この理解は、神の民が旧約聖書を理解でき、それが明らかにする働きが成就するように、聖霊が新たな働きによって旧約聖書を照らしてくださる、という何らかの教理に基づいてのみ、成り立ちます。パウロがこうした趣旨のことを述べている可能性は、もちろんあります。つまり、この見方によれば、旧約聖書は常にキリストと福音を証ししていたが、神の民が今になって初めて、それを見る(霊的な)目を与えられた、ということです。もしこれがパウロの要点なら、啓示は、何世紀も前にすでに書かれていたものについて、信者の内側で働く聖霊の働きの結果です。ところが重要なことに、パウロが「私の福音」と呼ぶものを、旧約聖書だけから受けたのではなく、旧約聖書には見られない、神からの新しい直接の啓示によって受けた(ガラテヤ1章12節、16節)と信じていたことを、私たちは知っています。この新しい啓示は、昔の奥義として与えられていたものを理解するために不可欠でした。救済史の展開の中で、パウロは自分を、新しい契約(new covenant/testament)の新たな顕現によって特徴づけられる、新しい時代の最前線にいる者と見ていました。聖アウグスティヌスの有名な言葉を借りれば、「新しいものは古いものの中に隠されており、古いものは新しいものの中で明らかにされる。」第三に、パウロは手紙のほかの箇所でも、旧約聖書に書かれた奥義と、より古い奥義の本当の意味と意義を明らかにする新しい契約の新たな啓示とを、はっきり対比させています。
たとえば、エペソ人への手紙3章でパウロは、ローマ人への手紙16章に見られるのと似た概念を用いています。
1 こういうわけで、あなたがた異邦人のために、キリスト・イエスの囚人となっている私パウロは…… 2 あなたがたのために私に与えられた、神の恵みの務めについて、あなたがたは聞いているはずです。 3 つまり、先に簡単に書いたように、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。 4 それを読めば、キリストの奥義についての私の理解がわかるでしょう。 5 この奥義は、今や御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されましたが、前の時代には、人の子らに知らされていませんでした。
ここでもパウロは、(キリストの)奥義について語っています。それは、過去の他の世代には「知らされて」いませんでしたが、今や啓示によって彼に「知らされた」のです。実際、この啓示は、「御霊による聖なる使徒たちと預言者たち」にまで及んでいます。明らかに、この新しい啓示は、新約の時代(「今」)に与えられています。したがって、5節の「御霊による預言者たち」は、旧約の預言者たちへの言及ではなく、事実上「聖なる使徒たち」の同義語と思われます。これは、エペソ人への手紙2章20節で、教会の土台を据えたとされている同じ人々(「使徒たちと預言者たち」)です。「土台」とは、定義上、一度だけ据えられ、その上に建てられるものです。これはおそらく、「御霊による聖なる使徒たちと預言者たち」が、権威ある宣教と著述によって据えた、教理的な土台を示しています。
結論として、ローマ人への手紙16章でパウロが「預言者たちの書」と言うとき、おもに(あるいは、もっぱら)新約聖書を指している可能性は、十分にあります。この問題について決定的な結論を出すことはできません。しかし少なくとも、「預言的な書」が、旧約聖書にも新約聖書にも等しく当てはまるカテゴリーだと認めることは、できるはずです。(この連載の今後の記事では、聖書と預言というカテゴリーを組み合わせている新約聖書のほかの箇所、とくに次の項で取り上げるヨハネの黙示録の最後の数章を考察するとき、新約聖書が「預言的」であるという考えに戻ります。)
この点を認めるなら、パウロの頌栄の最終段階(26節後半〜27節)に進みます。そこで私たちは、聖書(旧約と新約の両方)に与えられている啓示が、「永遠の神の命令に従って」おり、二重の目的を持っていることを見ます。それは、諸国民の弟子化と、神の栄光です。この部分は、書かれた啓示の始動因と目的(目的因)の両方、すなわち、一方では神の永遠のみこころ・命令、他方では、諸国民が神に従うことによって現される神の栄光を、暗示しています。
まとめると、「啓示」は、イエス・キリストの奥義の顕現が預言的な聖書に委ねられるようにという、永遠の神の命令によって、世界に対する神のご計画を成就し、神の永遠の栄光のために、起こります。啓示全般、とくに聖書を理解するうえで考慮すべき最も広い文脈が、永遠であることに注目してください。神による啓示の働きは、永遠の神の命令(定義上、永遠の命令)とともに「始まり」ます。(神は、ご自身の指令、すなわち「聖定」のみこころを変えられません。)そして、神の永遠の栄光とともに「終わり」ます。
この意味で、聖書は、福音や使徒たちの宣教と同じように、より広い啓示というカテゴリーに「仕えて」います。一部の神学者は、この点を押し進めてきました。彼らにとって、聖書はそれ自体が啓示なのではなく、啓示のしるし、あるいは証しにすぎません。しかし、すでに見たとおり、この区別は維持できません。パウロの頌栄では、啓示、イエス・キリストの福音の使徒たちによる宣教、そして預言的な聖書は、すべて同じ内容を共有しており、しるしと示されるもの、証しと出来事、といった線ではきれいに切り分けられないのです。この点をさらに明らかにするために、書かれた啓示についての具体的な教えを求めて、今度は新約聖書の黙示録など、聖書のほかの箇所に目を向ける必要があります。
聖書の引用は、英語版(ESV)を参考に、筆者が訳したものです。
