
10月から、名古屋の地元のカルチャーセンターで、初期仏教の講座に通っています。「通う」と言っても、「教える」ほうではありません。一受講生として出席しています。来年、初期キリスト教(のような講座)を私に教えさせてもらえないだろうか、という期待もあってのことです。申請は出してあります。
この講座は、私にとって本当に興味深いものです。毎回出席する20人ほどの方々が、実に真剣に取り組んでいるように見えるからです。日本人の3分の2以上が、何らかの形で自分は仏教徒だと答えますが、「平均的な」日本人に仏教について尋ねたことのある方ならご存じのとおり、たいていはほとんど知らず、まじめに「実践」しようという気持ちはさらにありません。ですから、講座のメンバーの関心の高さには、少し驚きました。
私にとって、この講座のもっとも魅力的な点の一つは、仏陀と初期の仏教徒について学ぶことを、キリストと初期のクリスチャンについて知っていることと比べられることです。表面的には、似ている点が多くあります。どちらの集団も、結束の固い共同体をつくり、師の教えを学び、それを実践しようと励み、超自然的な目標を見据えていました。しかし、表面をかき分けて(さらに掘り下げて)いくほど、根本的な違いがはっきりしてきます。
昨日の講座は、(少なくとも一部は)初期の仏教徒が性的誘惑にどう対処したかがテーマでした。もちろん、これは仏教徒だけの問題ではありません。この点で、クリスチャンと共通する部分があることは、表面的には明らかです。仏陀の弟子たちは、イエス・キリストの弟子たちと同じように(そしておそらく大多数の人々とは違って)、性的誘惑が問題であると認めています。それを避けたいと思い、襲ってきたときには、戦いたいと思っています。彼らには性倫理があり、高い基準があって、苦闘が伴ってもそれを追い求める価値があると信じています。その意味で、仏教徒もクリスチャンも、同じ舟に乗っているのです。
類似点はそこで終わりません。性的誘惑にどう対処するかという具体的な話になると、初期仏教の処方箋は(私たちが講座で読んでいる初期仏典によれば)三つの柱からなっていました。

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回避(つまり、できる限り誘惑に近づかないこと)
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緩和(つまり、いったん燃え始めた火に、薪をくべないこと)
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嫌悪(つまり、欲望が愛せと告げるものを、実は憎んでいるのだと自分に思い込ませること)
興味深いことに、この三つの柱は、聖書がクリスチャンに勧めていることと、多くの点で似ています。誘惑は必ずやって来ます。私たちは、ときに「捕らえられ」、「襲われる」でしょう(コリント人への手紙第一10章13節)。しかし私たちは、性的不品行を避けて逃げることで、誘惑を回避するよう教えられています(コリント人への手紙第一6章18節)。また、自分に降りかかってきた誘惑を燃え上がらせないことで、問題を緩和するよう気をつけなければなりません。箴言6章27節は、愚かにも自分のふところに火をかき入れる人の姿を描いています。この節にあるとおり、「衣は焼けずにいられようか」。そして、神が忌み嫌われるものを、細部に至るまで私たちも嫌悪しなければなりません(ユダの手紙23節)。私たちは、自分の間違った愛情を認め、それが悪であると指摘しなければなりません。性的誘惑に、すきを与えてはなりません。
それなら、これはまさに初期の仏教徒がしたことであり、今日の仏教徒の一部が行おうとしていることでもあるのではないでしょうか。では、何が違うのか。あらゆる点で、大きな違いがあります!
第一に、仏教には、真の創造の教理がありません。仏教の「嫌悪」の実践は、美しく見えるものが実は悪いものだと、自分に思い込ませることです。初期の仏教徒の男性は、美しい女性の体を、汚らしい液体が溜まった悪臭を放つ汚水だめだと考えるよう、自らを訓練しました。自然の美しさなど、心を捕らえかねないほかのあらゆる魅力的なものについても、同じことをしました。
これは、美しいものが本当は美しくない、と信じていたからというより、仏陀の教えに従うことの妨げとなりかねない美しいものに、心が傾かないようにするための技法でした。しかし実際には、徹底した世界の否定へと向かいがちでした。
クリスチャンはどうでしょうか。イエスを信じる者は、たしかに「世を愛してはいけません。世にあるものも愛してはいけません」と言われています(ヨハネの手紙第一2章15節)。しかし、文脈から見て、これは、良いものを悪いと呼び、美しいものを醜いと呼べという意味ではないことは明らかです。神の創造が良いものである限り、クリスチャンはその良さを認め、創造主をほめたたえるべきです。肉体の美しさは神の良い賜物です。性もそうです。これらは嫌悪すべきものではなく、むしろ、それを与えてくださったお方がほめたたえられるべきです。
第二に、仏教には、真の罪の教理がありません。これは実際にどういう意味でしょうか。初期の仏教徒は、不道徳な欲望を抱いた女性の体を嫌悪するよう訓練されました。一方クリスチャンは、不道徳な欲望を嫌悪すべきです。それが、神が与えてくださった良い賜物である性を歪めたものだからです。ゆえに、それは良き創造主に対する罪です。愛に満ちた、人格的な神という概念を欠く仏教には、そうした区分がありません。こうして、赤ん坊(この場合は、性、あるいは女性の体)が、産湯(歪められた性的欲望)とともに捨てられてしまうのです。
クリスチャンは、聖書の言葉で「たましいに戦いを挑む」(ペテロの手紙第一2章11節)罪深い欲望が、外からの刺激によって、ときには他人の罪深い行動によってさえ引き起こされるとしても、欲望そのものは私のものであり、私が憎しみを向けるべきなのはそれだと知っています。私はそれを自分のものとして認め、神の前でそれに責任を負います。もちろん、クリスチャンは、自分の外にある罪も嫌悪すべきでないと言うつもりはありません。たとえば、私はポルノを憎むべきです。それは、私個人にとって誘惑の源だからというだけでなく、他人の快楽と金銭的利益のために、人々を抑圧し、虐待する構造的な悪だからです。しかし私は、罪へと誘う誘惑が問題であるのは、神が、どのような形で見いだされようとも、罪を憎まれるからだと認識する必要があります。
第三に、仏教には、真の救いの教理がありません。仏教徒にとって「救い」とは、この世(その情念と苦しみのある世界)からの離脱であり、究極の目標は、悟りによって、終わりのない輪廻から解放されることです。それは、最終的には存在しなくなることです。仏教徒には、人格的な神との交わりの中で、被造物としての体を伴った存在が新しくされるという希望がありません。
仏教には、単に倣うべき模範を残しただけの者ではなく、誘惑と戦い、私たちのために勝利された救い主がいません。同様に、戦いに臨めるように外から与えられる力もありません。神の御子の賜物がないのと同じく、神の御霊の賜物もありません。ですから仏教には、最終的な勝利の確信がありません。いや、ありえないのです。性的な罪人がどうなるかは、結局のところ、本人次第です。
これに対しクリスチャンは、すべてに勝利される贖い主と、私たちの力だけでは勝てない戦いに備えさせてくださる、内に住まわれる御霊の力の両方を知っています。救い主の愛に引き寄せられて、私たちはまた、スコットランドの説教者トーマス・チャーマーズが「追い出す愛情の力」と呼んだものを、キリストにあって知ることができます。それは、罪深い欲望(性的誘惑を含む)を心から追い払う力です。キリストにあって、私たちは新しくされます。

つまり、最終的には、仏教には、真の神の教理がありません。仏陀は、(少なくとも像の姿としては)「慈悲」に満ちた目で見下ろしているかもしれません。しかし、罪人のためにできることは何もありません。差し伸べるべき愛の手も、注ぐべき力ある御霊も、分かち合うべき力強い救いもありません。これに対して、私たちの救い主なる神、イエス・キリストは、あらゆる性的な罪人を迎え入れてくださいます。人となって、私たちのために苦しみ、死なれた神の、真の憐れみをもって。その尊い血は、すべての罪を覆うのに十分です。その聖霊は、恐れも悪も追い出し、神の愛を私たちの心に注ぐ力があります。主は、私たちを今のままに置かれません。しかし、信仰をもって来るなら、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。
